たとえば私が立体化学を語るときには、どうしてもカタカナの専門用語を使わないと話ができません。
それは、専門用語に相当するぴったりの日本語がなかったり、日本語に訳すとかえってわかりにくかったりするからです。
でもですね。
たとえば、悲観主義/楽観主義とか、優先順位とか、要求水準とか、わざわざカタカナを使うよりも日本語で言った方がより多くの人に意味が通じるじゃないですか、と、私は思うのです。
それを、そんなの一般常識だと、カタカナ用語を使わない人間を馬鹿にするような輩は、自分をひけらかしたいだけだよね、としか思えないのです。
真の哲学とは、哲学の専門用語を使ってしか述べることができないわけではなく、その人なりの言葉で、自らの人生について語ればイイだけです。
キョーヨー部が存在した最後らへんの世代として申し上げますが、少なくとも、自分が履修したキョーヨー科目の哲学では、べつにカタカナ用語使わなくても日本語だけで十二分な議論が立派に成立してましたよ。
ですよねえ。←誰に向かって言ってる?